ティカル (ヤシュ・ムタル)

概要

 ティカルに居住が開始されたのは先古典期中期頃で、先古典期後期になると、「ムンド・ペルディード」などに建築群が建設され始めため、先古典期後期にはティカルの原型が形作られていたと考えられる。この時期は、Tikalの北部にエル・ミラドールが繁栄をしていたころである。そしてA.D1世紀頃に北アクロポリス(前350年ごろから建設が始められた神殿群)などの複合建築物が拡大していく。ティカルの王朝開始時期は、あまりはっきりとはしていないが、少なくともA.D100頃にはある程度権力をもった人物が生まれていたようである。ティカルの王朝は、その紋章文字からMutalと呼ばれており、都市自体はYax Mutal呼ばれていたようである。

 ティカル王朝の創始者は、北アクロポリスの埋葬85にある碑文から、Yax Ehb' Xook(第一の階段・鮫)であるとされる。彼は、A.D1世紀後半(90年頃)統治していたと考えられている。

 その後の数代の後継者はわかっておらず、最も古い日付[8.12.14.13.15;9Men;3Mol(A.D292年10月16日)]を伴った石碑29にアハウの肖像が見られる。石碑29には、オルメカ美術に起源をもつとされる中心の人物を先祖が上から見下ろしているという構図で描かれており、そこに描かれたアハウは、Foliated Jaguar(葉のジャガー)と推測されている。

 エル・ エンアカント遺跡から出土したA.D305〜308年頃のモニュメントに、第11代王のSiyaj Chan K'awiilT(天空で誕生したカウィール1世)と、その父である第10代王Animal Headdress(動物頭飾り)について言及されている。

 第12代には男子継承が中断されたらしく女王としてLady Une B'alam(ジャガーの仔)が、8.14.0.0.0;3Ajaw;8K'ank'in(317年9月1日)のkatunの完了の式典を執り行った。

 第13代王は、K'inich Muwaan Jol(偉大な太陽の鷹の頭蓋骨)である。彼は石碑39に次の王Chak Tok Ich'aakT(偉大な燃える鉤爪1世)の父として言及され、コロサル遺跡の石碑には死亡の日付[8.16.2.6.0;11Ajaw;13Pop(359年5月24日)]が刻まれている。

 第14代王のChak Tok Ich'aakTは、8.16.3.10.2;11Ik';10Sec(360年8月8日)に即位し、8.17.1.4.12;11Eb;15Mak(378年1月16日)に入水(死亡)した。彼は石碑39で8.17.0.0.0;1Ajaw;8Ch'en(376年10月21日)のkatunの完了を記念している。そして彼が死んだ数日後、8.17.1.5.8;1Lamat;11K'ank'in(378年2月1日)にテオティワカンからSiyaj K'ak'(火の誕生)がティカルに到着する。このテオティワカンからの侵入(Entorada)によりティカル王朝の家系全体が断絶することになる。そしてさらに、ペテン地方に『新秩序』をもたらすことになった。その影響はマヤ低地中部の南東に位置するホンジュラスのコパンにまで影響を及ぼし、メソアメリカ全体が『テオティワカンの時代』または『新秩序』として位置付けられるようになる。Siyaj K'ak'は、Spearthrow Owl(投槍梟)のヤハウ(臣下)で、Spearthrow Owlの息子を王に擁立させてティカルに新王朝を樹立させる。

  第15代王は、そのSpearthrow Owlの息子であるYax Nuun Ayiin I(最初の・?・鰐1世)で、8.17.2.16.17;5Kaban;10Yaxk'in(379年9月13日)に即位した。そして彼の優越王としてSiyaj K'ak'が二度にわたり言及されており、Siyaj K'ak'はティカル王の摂政的存在となっている。Yax Nuun Ayiin Iは、多くの石碑上でテオティワカン風の衣装を身につけている。妻のK'inich(太陽の目または顔)はティカルの女性であり、王権の正当性を主張するための政略結婚の可能性が示唆される。8.18.0.0.0;12Ajaw;8Sotz'(396年7月8日)のkatun完了を石碑4と18で記念している。そして石碑31の碑文によると、Yax Nuun Ayiin Iは8.18.8.1.2;2Ik';10Sip(404年6月18日)?に死亡している。そして墳墓10に葬られた。

 第16代王は、Yax Nuun Ayiin I”の息子のSiyaj Chan K'awiilU(天空で誕生したカウィール2世)である。彼は8.18.15.11.0;3Ajaw;13Sak(411年11月27日)に即位し、先代からのテオティワカン様式の座巻から脱皮するために、旧来のマヤ伝統と融合させるという復古的運動を行なった。このことは、石碑1、28や31などに見られる。それから彼の時代ティカルは、ティカルの南東約51kmに存在するウカナルまで支配下においていた。そして、9.1.0.8.0;10Ajaw;13Muwan(456年2月4日)に死亡し、北アクロポリスの神殿33の墳墓48に葬られた。

 第17代王は、先代の息子であるK'an Chitam(尊い/黄色い猪)で、彼は8.18.19.12.1;8Imix;14Sak(415年11月27日)に誕生して、9.1.2.17.17;4Kaban;15Xul(458年8月9日)に42歳で即位した。石碑40にこの王の事績が刻まれているが、明確な死亡の日はわかっていない。

 次の第18代王のChak Tok Ich'aakU(偉大な燃える鉤爪2世)は、先代のK'an Chitamの息子である。Chak Tok Ich'aakUの即位の日はわかっていないが、石碑3が建てられた488年には王位に就いていた。彼は、9.3.0.0.0;2Ajaw;13Muwan(495年1月30日)のカトゥン完了を記念して一度に3つのモニュメントを建立している。そして彼の死んだ日付9.3.13.12.5;13Chik'chan;13Xul(508年7月26日)は、トニナ遺跡に記されている。そしてヤシュチランのリンテル37には、Chak Tok Ich'aakUが死んだ日から14日後[9.3.13.12.19;1Kawak;7Yaxk'in(508年8月9日)]にヤシュチランの王Knot Eye JaguarT(結び目ジャガー1世)によって、ティカルの人物が捕らえられたことが記されている。Chak Tok Ich'aakUの後、ティカル王朝はティカルの「古典期中期(後508〜562年)」と呼ばれる王朝の動乱期に突入していく。

  次にLady of Tikal(ティカルの女王)が、9.3.9.13.3;8Ak'bal;11Mol(504年9月3日)に誕生し、9.3.16.8.4;11K'an;17Pop(511年4月21日)にわずか6歳でアハウとして即位している。

 しかし、次王のKaloomte B'alam(カロームテ・バラム)が製作させた王名表に名前が書かれていないことや、Kaloomte B'alam自身が第19代王と自称していることから、Lady of Tikalは王として認められていなかったようである。この第19代王であるKaloomte B'alamは、王家の血筋に繋がりが無い人物であった。

 第20代王は527〜537年のいずれかに統治していたことがわかっているが、それが誰であったのかは明らかにされていない。その有力な候補として石碑8に言及されているBird Claw(鳥の鉤爪)が考えられている。この時期に最初の双子ピラミッド・コンプレックスが建設される。

 第21代王は、Wak Chan K'awiil(ワク・チャン・カウィール)で、彼は第18代のChak Tok Ich'aakUの息子であった。誕生したのは508年1月で、即位した日は、9.5.3.9.15;12Men;18K'ank'in(537年12月31日)だと考えられている。そして彼は、石碑17の記述によると一時的にどこかに亡命していたことがわかる。この王の時代にティカルの北部に位置しているカラクムルの勢力が増大し始め、ティカルの近隣のナランホがカラクムルの支配下に入ることとなり、ペテン地域にティカルとカラクムルという二大勢力が生じるようになる。そして、562年にティカルはカラクムルから「スターウォー(星の戦争)」が仕掛けられ、それに敗北したことでティカルのペテン支配に終焉がおとずれ、長期間に及ぶティカルの暗黒時代へと突入していくこととなる。 Wak Chan K'awiilの失墜の後、約130年間日付が伴うモニュメントが一切見られず、この時代は「Hiatus:中絶期(562〜692年)」として知られるようになる。しかし、マヤ地域全体では、停滞期というよりも事件や変化に満ちた時代であった。

 Wak Chan K'awiilの後を継いだのはAnimal Skull(動物頭蓋骨)で、 第22代王となるが前代までの父系出自ではないため、母の高位を強調することで自分の王権の正当性を示している。アルタル・デ・サクリフィシオス遺跡の碑文によると、彼は628年までは生存していたようである。そして北アクロポリスの神殿32の墳墓195に埋葬された。

 続く第23代と24代の王については、存在だけはわかっているが、その詳細はまったくわかっていない。この第23代と24代の王の時代にティカルで重大な事件が起こった。それは、ティカル支配者層に内部分裂が生じ、Mutalの称号使用の正当権をめぐって争いが起こったのである。そして648年ごろ分派した一部の集団がティカルの南西約112kmに位置するペテシュバトゥン地域に逃れ、その地でB'alaj Chan K'awiil(バラフ・チャン・カウィール)がドス・ピラスを建国した。

 ティカルの第25代王であるNuun Ujol Chaak(?・頭のチャーク)については、ティカルには僅かな碑文でしか見られないが、他国に見られる史料からその事績が詳細に判明されている。Nuun Ujol Chaakの治世において、分派したドス・ピラスのB'alaj Chan K'awiilとの王朝の正統性を巡る争いと、ドス・ピラスを後見するカラクムルとの争い、という2つの問題を抱えることとなっていた。Nuun Ujol Chaakは657年にカラクムルのYuknoom the Greate(大ユクノーム)による「星の戦争」に敗北したことでどこかに逃亡した。その戦いのあとティカルはカラクムルに対して貢納品を捧げている。そして彼は、659年にパレンケの軍事行動に加担してヤシュチランを攻撃し、そこで捕虜を獲得している。この当時、ヤシュチランはカラクムルの同盟国であったピエドラス・ネグラスの支配下に置かれていた。この戦争の7日後にNuun Ujol Chaakは、パレンケのK'inich Janab PakalT(偉大な太陽・?・楯1世)に伴われてパレンケを訪れている。その後ティカルに帰還することができ、672年にドス・ピラスを攻撃して宿敵であったB'alaj Chan K'awiilを追放させた。これによってペテシュバトゥン地域を支配下に置くようになったが、わずか5年後の677年にカラクムルとの戦争に敗北したことで、ペテシュバトゥン地域から撤退を余儀なくされる。そして2年後の679年にカラクムルの支援を受けたドス・ピラスのB'alaj Chan K'awiilと再び争いが生じ敗北する。これが決定的な敗北になったようで、以後Nuun Ujol Chaakの名は現れなくなる。

  その戦争の3年後の9.12.9.17.16;5Kib;14Sotz'(682年5月6日)に、Nuun Ujol Chaakの息子のJasaw Chan K'awiilT(空を晴れさせるカウィール1世)が第26代王に即位する。そして神殿Tにある木製のリンテル1によると彼は、9.13.3.7.18;11Etz'nab;11Ch'en(695年8月8日)にカラクムルのYich'aak K'ak'(炎の鉤爪)に戦勝し、カラクムルの守護神Yajaw maan(神像)を捕獲した。これによってカラクムルの広範な覇権は衰退していくことになり、逆にティカルの軍事力は再生されていく。そして彼は、「テオティワカンのシンボリズムの復活」という独特な方法で、ティカル復活の表明をしている。それから彼は、旺盛な建築活動をしており、一つはカトゥンの完了記念に双子ピラミッド・コンプレックスM[9.13.0.0.0 ;8Ajaw;8Uo(692年3月18日)]、N[9.14.0.0.0 ;6Ajaw;13Muwan(711年12月5日)]、O[9.15.0.0.0 ;4Ajaw;13Yax(731年8月22日)]の建造、二つ目に妻のLady Kalajuun Une Moを記念した神殿Uの建造、そして三つ目に自分の墓(墳墓116)となる神殿Tの建造でなどである。このようにこれまでカラクムルの支配力が強かったペテン地方に、再びティカルが台頭するようになった。

 第27代王は、先王の息子のYik'in Chan K'awiil(空を暗くするカウィール)である。彼は、9.15.3.6.8;3Lamat;6Pax(734年12月12日)に即位して、ティカル史上最大の建築活動を行なった。そして神殿Wの木製のリンテル3から彼は、9.15.12.2.2;11Ik';15Ch'en(743年8月1日)にエル・ペルーの衛星都市であるヤシャ(青い水)を攻撃し、エル・ペルーのJaguar Throneを敗北させ守護神像を強奪し、その191日後の9.15.12.11.13;7Ben;1Pop(744年2月8日)、ティカルの東北に位置するナランホの首都ワシャク・カブナル(6の大地の場所)を攻撃して、そこの王であるYax Mayuy Chan Chaakを捕獲している。この当時、エル・ペルーとナランホはカラクムルの同盟国であった。

 次に即位した第28代王については、あまり明らかでない。実際にはいなかったとする研究者もいる。

 そして第29代王にYik'in Chan K'awiilの息子であるYax Nuun AyiinU(最初の・?・鰐2世)が、9.16.17.16.4;11K'an;12K'ayab(768年12月29日)に即位した。彼は、先代と同様にカトゥン完了記念に双子ピラミッド・コンプレックスを建てている。それは2基存在しており、一つは双子ピラミッド・コンプレックスQで9.17.0.0.0;13Ajaw;8Kumk'u(771年1月24日)に、もう一つは双子ピラミッド・コンプレックスRで9.18.0.0.0;11Ajaw;18Mak(790年10月11日)に建てられた。このような建築活動は見られるが、日付入りのモニュメントが相対的に欠如している。彼が死んだ日は明確にはわからないが、多彩色土器にある記述から794年までは生存していたようである。

 この王の後、古典期終末期(後800年〜925年)に次々と起こったマヤ地域の大センター崩壊の波が、ティカルでも例外なくおとずれるようになる。 この古典期終末期の王たちについてはあまり明らかにされていないが、一人には石碑24、祭壇7や神殿Vの木製リンテル2に言及されているDark Sun(闇の太陽)が認められる。リンテル3の碑文によると、彼にはNuun Ujol K'inich(?・の頭をした太陽神)”という名の父親が存在していることがわかっており、Dark Sunは19カトゥンの完了[9.19.0.0.0;9Ajaw;13Mol(810年6月28日)]を石碑24で記念しているので、Nuun Ujol K'inichは、794〜810年の間のどこかで統治していたと考えられている。

 そして次にセイバルで、ティカルの神聖王としてJewel K'awiil(宝石カウィール)という名の王が、セイバル王の10.1.0.0.0;5Ajaw;3K'ayab(849年11月30日)のカトゥン完了記念の祭典に立会っていることが言及されている。859年以降になるとティカル以外のセンター(イシュル、ヒンバル)でMutalの称号が使用されており、ティカルの権威が雲散していたことがうかがえる。

 そしてJasaw Chan K'awiilU(空を晴れさせるカウィール2世)が、10.2.0.0.0;3Ajaw;3Keh(869年8月17日)のカトゥン完了記念に石碑11を建てたのが最後となり、以後ティカルでは石碑は見られなくなる。ペテン地域においてもヒンバル、ワシャクトゥンで889年に石碑が建てられた以降、石碑は建立されなくなる。そしてマヤ地域全体では、トニナのモニュメント101に刻まれた10.4.0.0.0;12Ajaw;3Wo(909年1月20日)のカトゥン完了の日付が最後となり、以後古典期マヤは終焉を迎えることとなった。

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キーワード
  • 石碑29
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  • カラクムル
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  • 政略結婚
  • 神殿ピラミッド
  • スターウォー
主な参考文献
マヤ概説
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  • Simon Martin & Nikolai Grube 2000 "Chronicle of The Maya Kings and Queens"
  • Rovert J. Sharer & Loa P. Traxler 2006 "The Ancient Maya 6th edition"
  • Michael D. Coe 1999 "The Maya 6th ecition"
  • 青山和夫 猪俣健 1997 "世界の考古学A メソアメリカの考古学"
  • 八杉佳穂(編) 2004 "マヤ学を学ぶ人のために" 
  • 関雄二 青山和夫 2005 "岩波 アメリカ大陸古代文明事典"
ティカル関係
  • University Pennsylvania The University Museum "Tikal Peport "
  • Jeremy A. Sabloff 2003 "Tikal : Dynasties, Foreigners, & Affairs of State"
  • Juan Pedro Laporte & Juan Antonio Valdés 1993 "Tikal y Uaxactún en El Preclácio"
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