現在ティカルは、ユネスコの世界文化遺産及び自然遺跡の双方に登録されている貴重な遺跡である。今やマヤ文明の代名詞として、世界的に「密林に浮かぶピラミッド群」として知られている。しかし、ティカルが全盛期を誇っていた時代は、全く異なった景観であった。周囲の密林はほぼ伐採され、床は漆喰で塗り固められて、石像建造物の周りには草葺き屋根の住居群が広がっていたと想像する。
ティカル王朝は、その紋章文字からムタルと呼ばれていたようで、現在33人のアハウ(権力者、王)がいたことが確認されている。メキシコ中央高原のテオティワカンと非常に強い関係性を持っており、他の都市国家との関係においても優越した地位にあったらしく、オチキン・カーロムテと呼ばれる称号を使うときもある。その背景としてA.D378のテオティワカンの侵入があり、それ以後王朝の正当性をテオティワカンに関連させることもあった。しかし、テオティワカンの衰退、カラクムルとの戦争における敗戦、ドス・ピラスの敵対的分家によって、徐々にその力が衰えていった。そんな中、Jasaw Chan K'awiilによって一度盛り返し、多くの建造物が建立されるようになったが、9世紀の中頃に石碑等のモニュメントが建てられなくなり、都市は放棄されたようである。
ティカルにおけるこれまでの発掘調査の結果、タルー・タブレロ様式建造物、円筒形三脚土器、「投槍フクロウ」(テオティワカンの権力者の名)の名が刻まれた球戯ポール、などからテオティワカンと密接な関係にあったことがわかってきた。そして、神殿ピラミッドや北アクロポリスなどから豪華な副葬品が納められたいくつかの王墓が発見されている。王墓からは、翡翠製品が目立ち、中でも翡翠の角平板をより合わせて作った翡翠モザイク容器はその加工技術が非常に優れていたことを物語っている。さらに神殿ピラミッドの入口を飾る「まぐさ」は、木製のものもあり、石材加工技術だけでなく、木材加工技術もかなり高度なレベルを持っていたことをうかがわせる。
現在もティカルでの発掘調査が続けられており、今後の成果によってティカル歴史、広くはマヤ文明の外観が解明されていくかもしれない。